下手の考え休むに似たり

仕事が忙しい。
何でもハイハイ言ってやっていると、しまいには机の上が書類で山になってしまう。
断るのも力量のうちかもしれない。

姉が来てくれて、施設の両親訪問を肩代わりしてくれる。
こう言うと施設に居る父、母がまるでお荷物のように聞こえてしまう。
自分がなぜこの地に帰ってきたのか、初心を忘れないよう気をつけなければならない。

姉もひと月に一度来てくれるが、超高齢の義母はいるし、自身、がんセンター通いもしていて決して楽ではないはずだ。でも、多分今しかないという思いからなのだろう。
後悔のないようしてもらいたい。

ここにきて、自分たちの将来も考えなくてはならないと思うことがある。
そんなことはとっくに考えたうえでこの地へ戻ってきたのではないのか?と思われるかもしれないが。
しかし考えてわかることなのだろうか?
よく将来の生活設計をして、その通り着実に実行している人がいると耳にする。はたから見ていると、そのように見える人も確かにいることはいる。多分努力家なのだろう。しかし、その行き着く先は何なのか?

私は自分の過去を振り返っても、自分の生活設計を立て、いい就職をして、結婚して、子供を産んでどこそこに家を建てて・・・という設計を抱いたことがない。ましてや父母の介護の先の事など。
ki-はそんな私をだからダメなんだと突き放す。
その通りにならなくても、ある程度将来を見据えて、それに向け努力をすることが大事だと言いたいのだろう。

その通りかもしれない。私はどちらかと言うと刹那的な生き方をしてきたと自分でも思う。
しかし、あえて反論するなら、私はその瞬間、瞬間を一生懸命生きてきたし、いろんな岐路に立った時も、必死に考え最善の判断、決断をしてきた。・・・と内心思っている。決して間違いではなかったはずだ・・・と。

多分、誰からもそのことについて評価されることはないだろう。およそ自己満足にすぎない。それでも私はこの生き方が間違っているとは思えない。
計画、実行、評価のサイクルは何かをするときの手法であって、目的ではない。人生という雄大な場面で、そんなチマチマしたことなどやってられないのだ。人生の目的ってもっとデカくて宇宙的規模であってほしくないか?

それに、そもそも私はあまり計画を立てることが好きではない。
人生という長い道のりで、計画を立ててその通りになって、振り返って満足する。これも自己満足だろう。
計画なんか立てなくてもおのずと道は定まる。そう思っている。

しかし、私にとって人生におけるデカい目的とは何だろう。結果、地位も名誉もなく、蓄財もなく、ましてノーベル賞などお呼びでない。振り返った後にはぺんぺん草も生えていない。「オマエハナンノタメニイキテキタノカ」と天からおしかりを受けることすらない。無視されている。それでいいのか?・・・と思うことはある。

だいたい、人生におけるデカい目的などあろうはずもないことを考えるからこうなる。堂々巡りなのだ。
人生にデカいもチッチャイもない。もともとチッチャイのだから。だって人間も素粒子からできているんでしょ?
宇宙的規模で目的を云々しても始まらない。目的がなければ計画もいらない。
一生懸命生きていくことが人生の営みなら、計画などいらんのだ。
何のために生きるか?という難問は残るけどね。

ところで、私たちの将来はどうするの?






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