認知症患者が、JRの線路内に入って死亡事故を起こし、あげくその家族が管理不行き届きとして損害賠償請求を受けたという事件。1審2審とも家族の責任を認め賠償の支払いを命じた。
これっておかしくないですか?どう考えても被告家族にとって酷ではないですか・・・と。
認知症患者が思わぬ事故で亡くなり、そのうえ介護をしていた家族が、さらに追い打ちをかけて、被害企業から損害が発生したとして賠償請求を受けるというのは、いかにもやり切れないのではないでしょうか?情けはないのか、と思うのです。天国に行ってまでお金を請求されるのですか?と言うのは言いすぎでしょうか?
1審2審では法律の判断に忠実だったのかもしれませんが、誰しもえっ!と驚いたと思うのです。法律ってホントに厳しいものなんだなあ・・・とつくづく思ったものでした。私は1審2審の裁判官も、被害者の救済も考えつつ、何とか加害遺族への損害賠償請求までは避けたいと模索したと思うのですが、最後は法律に冷徹に判断せざるを得なかったかと思います。果たしてこれは三審制という制度上から上級審での判断を仰いだのか?と思ってしまうのは素人の考えでしょうか。
私が昔学んだ法律学というのは、法律とは人のためにあるのであって、人を苦しめるものであってはならない、というものだったと記憶しています。今でも基本はそうだろうと思いますが。(ちなみに、当時は民法の末川博学長や刑法の佐伯千仭先生等の時代です。懐かしいですね~)
たとえ法律の執行が条文の通りだったとしても、その適用が人を苦しめるものであったらそれは許されない。もちろん、人を苦しめるとか人のためにならないとか、確かに考え方は人それぞれでまちまちだから、そんな不安定なものが判断基準であっていいはずはない、という反論は受けることでしょう。
しかし、何のために法律が存在するかという大前提で考えるならば、結果がある程度、誰もが納得できるものでなくてはならないと思うのです。
法律の不備や時代に合致しない等の問題は、先般の安保関連法案で議論にもなりましたが、それは法の解釈で補充されるものだとされています。しかしその解釈が、根本的に人の平和や幸福を脅かすものであってはならないのは言うに及ばず、それが憲法で保障されているとするならば、憲法の精神を大前提に解釈されなくてはならないと思うのです。
また、民法の定める夫婦の扶助義務は相互に負う義務であり、第三者との関係で監督義務を基礎づける理由にはならない(本日のビックローブニュース欄解説の一コマ)という趣旨の内容は、私たち介護をする者にとって非常にありがたいことと受け止めてよいのではないでしょうか。
そういう意味で、私はこのたびの最高裁判決に拍手をおくりたいのです。

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