父亡きその後

「死」は悲しみではなく苦しみである、ということを今回改めて知ることとなった。

それは亡くなった父のことであり、残された私たちのことでもある。

父が亡くなったその日の夜は涙したものの、それ以降涙というよりは息苦しさだけを感じている。

多分、父が亡くなる直前はとにかく苦しそうだったからである。

あんなふうに苦しみたくないと思うと自然と「南無阿弥陀仏」と唱えたくなる。

人の話では見た目ほど苦しいわけではないとも言われるが、いずれにせよ

私の唱える念仏は所詮父を思ってというよりは自己救済のためかもしれない。

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(5月に入って咲いたチューリップと芝桜)
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(プリムラジュリアン)
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(水仙)
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(路上のクロッカス)



一方、父が亡くなったその日に、病院に入院したは母は一カ月弱で退院したものの、

一週間もしないうちに再入院となってしまった。

父の時と違って、今回のDrは何度も治療方針について丁寧に説明してくれる。

話しは看取りの方法まで及んだ。

母の自宅での看取り方法も相談してみたが、諸般の事情から施設での見取りを勧めていただいた。

しかし、自宅どころか施設に戻れる確率さえ高くはないかもしれない。


私たち夫婦は、用事のある日以外ほぼ毎日食事介助をしに病院に通っている。

母は、声や表情に乏しいがご飯だけは完食してくれるのである。

もちろん薬を飲ませたり、すぐ眠りそうになる母を起こしながらの食事介助は決して楽ではない。

私はすぐ諦めようとするが、妻は決して手を抜かない。

そういえば東京の病院務め時代から彼女は決して手を抜かないことで評判だった。

彼女の献身的な態度には本当に頭が下がる。


救いは母がそんなに苦しそうではないことだ。

その内心は知る由もないが、たまあに「えっ?」と声が出たり、

ニコッとしてくれたりするだけで本当にうれしいものである。

まるで赤ちゃんをあやすような感じである。


再入院の後は正直完食とはいかないものの、少しずつ食べる量は増えてきている。

だが、どうなんだろう?

母の表情に一喜一憂する毎日である。

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(最近読み始めている、私には少し難しい一冊)
















この記事へのコメント

2019年05月12日 18:08
こんばんわ。
お父さまをお浄土に送られお母さまの看取り介護。
お辛い時期をお過ごしのマンさん、お気持ち
察するに余りあるものがございます。
人は近しい人の死によって自らの生死(人生)を思います。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに
親鸞一人がためなりけり」。有名な「歎異抄」の中の
親鸞聖人のお言葉です。つまり、「阿弥陀様の願いは
まさに私のためにこそある」という発言。
これは我々を救済するという宗教の本質を現している
お言葉です。
「なぜ阿弥陀は存在するのか」⇒
            「それはこの私を救うため」
この当事者に立たない限り、仏の教えも救いもないのです
仏法は、「他人事」ではなく常に「自分が救われる道」とお心得下さい。
ですから南無阿弥陀仏の仏法(他力)は自分自身が問われる教えです。マンさんご一緒に救われて参りましょう。
長くなるので今日はこれで失礼します。

奥様共々、きっとみ仏のお心が理解出来るに違い
ありません。南無阿弥陀仏。
2019年05月13日 21:55
慈恩さん いつもお見守り頂きありがとうございます

昨日、札幌霊堂で四十九日を終えてホッとしているところです。その日のお坊さんの説教通り、四十九日の意味も知らずに、とりあえず一段落を得ております。
その日のお坊さんは若い方でしたが、「残された遺族の人が、まだまだ先人の足元にも及ばぬことを改めて教えてくれているのだ」と言っておられました。まさに痛感しました。死に面し、極楽浄土へ旅立つ方へ、「行ってらっしゃい。私もいつか導いてくださるよう「南無阿弥陀仏」と唱えるのです」とのお話しでした。
父には今までもいろんな事を教えていただきましたが、これからも私の生涯学ぶことになるでしょう。

母もいずれは導かれることになりましょうが、少しずつ回復基調です。今を大切に生きていきたいと思っております。

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